日本全国の歌舞伎に関するあげなとこ、こげなとこ。(あんなとこ、こんなとこ。)

 

いつもとは違った角度から歌舞伎に触れてみる。

すると、また違った歌舞伎の顔が見えたような気がしてさらに奥深く歌舞伎を愛せることでしょう。

わたくし下川智子が実際に行ってまいりました感想と写真を含めご紹介いたします。

​まだまだ行きたいところがたくさんあります。

随時このページでみなさまに共有できたらと思っておりますので、どうぞお付き合いくださいませ。

長崎

​福地櫻痴生誕の地

ふくちおうちせいたんのち

ところ 長崎市油屋町

(長崎県長崎市油屋町2-31)

福地桜痴の生誕地である現在の長崎市油屋町へ足を運んでまいりました。

 

幼い頃から優秀であった福地桜痴。

幕臣、記者、政治家、小説家、劇作家、経営者…など多方面で活躍した人物です。

 

1841年医師である福地苟庵の息子として長崎に生まれ、

1857年江戸へ向かうまでこの地で過ごし漢学や蘭学を学びました。

 

現在この場所に「福地櫻痴生誕の地」の碑があります。

歌舞伎関連でいうと

1889年に実業家である千葉勝五郎と共に木挽町に歌舞伎座を開設しました。

その後、経営から離れ歌舞伎座の座付作者となり脚本を執筆。

 

九代目市川團十郎と親しくしていたようで、

團十郎と組んで現在でも上演頻度の高い「春興鏡獅子」や

「侠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)」(初演時には「おとこだてはるさめがさ」と呼んだ。)

など名作を残しています。

 

 

また、遊び好きでもあり吉原遊廓に通っていた桜痴は吉原大門に

 

春夢正濃満街桜雲 秋信先通両行燈影

(春夢まさにこまやかなり 満街の桜雲 秋信先に通ず 両行の灯影) 

 

という漢詩を刻みました。

 

 

…そして、

 

これについて私…

吉原弁財天にて前回撮影した動画をたまたま見直していてびっくりしました。

弁財天の入り口両サイドに上記の漢詩と「作詩 福地櫻痴」と名が刻まれていたのです。

 

それがこちらなのですが

本当に文字が多い場所なのでそのときは桜痴の漢詩には気づかなかった。。

しかも

長崎の「福地櫻痴生誕の地」に行ったこのタイミングで

なぜか吉原で撮影した動画を見直して

桜痴の漢詩に気づくって…(笑)

 

なんとなくゾッとして鳥肌立ちました。。笑

やっぱり吉原こわいーっ!!と思って( ;  ; )

 

いろんな人の念…

入ってます。

 

 

 

 

私が思うに、、

弁財天には遊女たちの供養塔やお墓があり、成仏したかしてないかわかりませんが無念で亡くなった遊女たちの魂がそこにあるわけで。

弁財天の出入り口って1箇所なんですよ。小さい敷地ですしね。

だから、そこを当時の吉原遊廓に見立てて、、というか。

吉原大門って遊廓の唯一の出入り口でしたから。

その大門に刻んだ桜痴の漢詩が今は弁財天の出入り口の両サイドに刻まれているって…そういうことなんだろうなと。

※本当のところはわかりませんが。

そう思いません?

 

桜痴は吉原で渋沢栄一とも出会い

その紹介で伊東博文とも会っています。

その後、アメリカやヨーロッパへ渡り…と、とにかく濃い生涯でした。

(もっと知りたい方はあとは各自調べてください〜)

 

 

 

でも、面白いですね〜。

以前、行ってまいりました浅草寺の九代目團十郎像、その團十郎と仲が良かった福地桜痴。

そして吉原好きな桜痴は吉原大門に漢詩を刻んだ。。

それが今は弁財天に刻まれている。。

 

…いや、全部繋がってるな〜と思って。

まぁ歌舞伎関連でわざわざ訪れてるので、そりゃそうか。(笑)

 

 

 

当時、福沢諭吉と並んで天下の双福と称されるほど偉大な人物であったそうですね。

 

現代でも通用するくらいの男前だし、仕事もできてモテただろうな〜。

© 2017 Tomoko Shimokawa